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第四話 晴れた日の雨

Author: 天咲琴乃
last update publish date: 2026-09-24 13:38:48

「お姉ちゃん、びしょ濡れじゃん!」

社務所に戻ってきたイズミを見て、ことねぇは目を丸くした。

イズミの黒髪は濡れ、白い巫女装束の肩には水が染み込んでいる。

「雨に降られてしまって」

「雨?」

ことねぇは窓の外を見た。

青空だった。

雲ひとつない。

「……どこの雨?」

「境内で」

「境内のどこ?」

「参道の辺りよ」

「私、ずっと外にいたけど?」

イズミは黙った。

ことのが畳に置いていた本を閉じる。

「お姉ちゃん」

「なあに?」

「何か隠してる?」

「……いいえ」

「じゃあ、そのお守りは?」

イズミの指が止まった。

胸元には、薄青色の守り袋。

銀色の糸で水の模様が刺繍されている。

さっきまで濡れていたはずなのに、今は乾いていた。

「これ?」

「光ってた」

「え?」

「さっき、廊下を歩いてきたとき」

ことのはイズミの胸元を指さした。

「青く光ってたよ」

ことねぇが身を乗り出す。

「えっ、何それ! お姉ちゃん、変身するの?!」

「しません」

「水属性の巫女とか?」

「ゲームじゃないのよ」

「じゃあ、必殺技は?」

「ありません」

「ウォータースプラッシュ!」

「ことねぇ」

「はい」

イズミに名前を呼ばれ、ことねぇは正座した。

ことのが小さく笑う。

けれど、イズミは笑わなかった。

「……声が聞こえたの」

二人の表情が変わった。

「声?」

ことのが尋ねる。

イズミは頷いた。

「男の人の声。私の名前を呼んでいたわ」

ことねぇは一瞬、目を輝かせた。

「えっ、イケボ?!」

「ことねぇ」

「ごめん。真面目に聞く」

イズミは胸元のお守りを握った。

「その人は、瀬川先生から離れろって……」

「瀬川先生?」

ことねぇの声が裏返った。

「ちょっと待って。診療所の瀬川先生?!」

「ええ」

「えええええ!」

ことねぇは勢いよく立ち上がった。

「お姉ちゃんの好きな人、瀬川先生なの?!」

「違います!」

「今、名前出した!」

「偶然よ!」

「偶然で男の声が嫉妬する?!」

「嫉妬とは言っていないでしょう!」

ことのが静かに手を挙げた。

「二人とも」

「なに?」

「おばあちゃん、呼んだほうがいいと思う」

三人が黙った。

確かに。

笑って済ませていい話ではなかった。

昨夜、ことねぇが「大嫌い」と思った男が死んだ。

今朝、祖母は三姉妹に恋愛を禁じた。

そして今、イズミの周囲だけに雨が降った。

ことのは窓の外を見つめた。

「……お姉ちゃん」

「なあに?」

「その声、怖かった?」

イズミは少し考えた。

「怖いというより……」

胸元に手を当てる。

「懐かしかったの」

ことねぇは首を傾げた。

「懐かしい?」

「ええ。初めて聞いたはずなのに、ずっと前から知っているような……」

そのとき。

社務所の電話が鳴った。

三人が同時に振り返る。

イズミが受話器を取った。

「はい、篝火神社です」

相手の話を聞くうちに、彼女の顔色が変わった。

「……瀬川先生が?」

ことねぇとことのが顔を見合わせる。

イズミは受話器を強く握った。

「分かりました。すぐに伺います」

電話を切る。

「お姉ちゃん?」

ことねぇが尋ねた。

イズミは答えなかった。

「何があったの?」

ことのが立ち上がる。

イズミは震える声で言った。

「瀬川先生が……川に落ちたそうなの」

一瞬、時間が止まった。

「……え?」

ことねぇの声が小さくなる。

「さっきまで、神社にいたよね?」

「ええ」

「どうして川に?」

「分からないわ」

イズミは足元を見つめた。

水滴が一つ、畳に落ちた。

ぽたり。

ことのが息を呑む。

イズミの髪は、もう乾いていた。

服も乾いている。

なのに。

ぽたり。

もう一滴。

彼女の足元に、水が落ちた。

「お姉ちゃん……?」

イズミはゆっくり顔を上げた。

その瞳には、涙が浮かんでいた。

「私、先生に何もしていないのに……」

その瞬間。

社務所の窓が、音を立てて震えた。

遠くから、水の轟く音が聞こえた。

ことのが窓を開ける。

神社の石段の下。

普段は穏やかに流れる小川が、濁流になっていた。

雨など、一滴も降っていないのに。

「……嘘でしょ」

ことねぇが呟く。

イズミは胸元のお守りを握りしめた。

「お願い……」

誰に向けた言葉なのか、分からなかった。

「先生を、助けて……!」

その声に応えるように。

小川の水が、突然、静まり返った。

流れが止まった。

水面が鏡のように平らになる。

そして、その中央から。

一本の白い手が現れた。

ことねぇが悲鳴を上げた。

「ぎゃあああああ!」

ことのが彼女の腕を掴む。

「落ち着いて!」

「無理無理無理! 手! 川から手!」

イズミだけが、動かなかった。

水面から現れた手は、何かを抱えていた。

人間だった。

白衣を着た、男性。

瀬川遥人。

彼は川岸へ、そっと押し上げられた。

やがて白い手は水の中へ消えた。

川の流れが戻る。

何事もなかったかのように。

三姉妹は、ただ立ち尽くしていた。

ことねぇが、ぽつりと言った。

「……お姉ちゃん」

「……なあに?」

「今の、彼氏?」

「違います!」

「じゃあ誰?!」

イズミは答えられなかった。

ただ、胸元のお守りが。

まるで誰かの手のひらのように、温かかった。

遠い神域。

高龗は水面に映るイズミを見つめていた。

彼女の涙が止まったことを確かめると、静かに目を伏せる。

「……お前が泣く必要はない」

その声は、誰にも届かない。

「まだ、迎えには行けぬ」

水面に映るイズミが、胸元のお守りを握りしめる。

高龗は、そっと指先を伸ばした。

触れることのできない妻の頬を、水越しになぞるように。

「だから今は、せめて」

彼の指先から、淡い光が広がった。

「お前の大切なものを、守らせてくれ」

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